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大切な人と過ごす、かけがえのない伊香保時間
伊香保の歴史は古く、万葉集の東歌の中に伊香保が歌われており、奈良時代の伊香保が考察できます。その当時の伊香保は今の地域より広い範囲で、榛名山の大部分も含めて伊香保と呼ばれていたようです。
自然と一体になった榛名神社
西国の巡礼に対抗して水沢寺が関東の十六番札所に選定され、巡礼者が多く訪れるようになりました。また榛名神社も信仰を集め、榛名詣は江戸時代の観光名所となり、湯治をかねて多くの人が訪れました。伊香保は元禄時代と文化・文政時代に黄金時代を迎えました。
江戸時代に伊香保の湯治は大ブームとなり各藩の武士、町人や農民などありとあらゆる階層の人々が伊香保を訪れるようになり、往来する者が増えたので、口留番所が設けられました。
石段街の最上部にあり、上野国三ノ宮として親しまれる由緒ある神社です。温泉、医療の神様で、境内は荘厳な雰囲気が漂います。温泉街が一望できます。
伊香保はしばしば大火事に見舞われました。その原因は榛名山の中腹にあるため、下から上に風が吹き上げるため、火災が起こるとすぐに広まるということです。そして旅人による失火が防げなかったこと、さらに慢性的に水不足だったため、消火が出来ませんでした。町の大半を焼き尽くした大火の記録は寛文6年(1666年)から残っています。
明治23年に宮内省は、元老院議官金井之恭の別荘とその付近を買い上げて「伊香保御料地」とすることにしました。こうして御用邸が選定されてから毎年皇族が伊香保へ来遊するようになりましたが、昭和26年に御用邸が文部省に移管となり、現在に至っています。
明治時代に日本駐在のハワイ国総領事で、大の日本びいきであったロバートウォーカー・アルウィン氏が、伊香保に別荘を持っていました。これが明治30年頃の案内記で「ハワイ国公使の別荘」と記され、それ以来、名所の一つとなっています。現在は町指定の文化財となっています。
天正4年(1576年)、郷土であった小暮氏、千明氏、岸氏、大島氏、島田氏、望月(永井)氏、後閑氏の七氏が湯元から現在地に集落を移し、伊香保の石段街を作りました。湯元から温泉を引き、石段を作り、中央に湯桶を伏せ左右に調整、区画された屋敷に湯を分けるという日本初の温泉リゾート都市計画です。その後寛永16年(1639年)に引湯権に関する温泉構造の規定が定められた頃には、温泉の引き湯口を持つのは十四氏になっていました。
十四氏の大家には家来筋にあたる門屋がそれぞれあり、大家から土地と洗い場を預けられて湯治人宿を商っていました。大家と門屋以外の者が店借りと呼ばれて酒店や豆腐店、髪結、油屋、畳屋などを商い、現在のような町並みを作り上げていきました。
大型バスの団体旅行客が伊香保にたくさん来るようになり、増え続ける観光客を受け入れるため、境沢地区の町有地を民間に開放して新温泉街を建設造成する計画が立てられました。この土地は希望者に分譲する形を取ったので、異業種からの旅館参入が増加しました。こうした取り組みは他の温泉地ではまだなく、伊香保が先鞭をきることとなりました。旅館経営を希望する人が多くなったため、昭和39年には抽選で旅館経営の許可が出されることとなりましたが、これは「大伊香保計画」と呼ばれました。
自然と一体になった榛名神社
なんといっても雷が激しい土地柄なので、伊香保の御用邸(明治23年に建設)に地方では珍しく避雷針を設置しました。これが全国に避雷針が普及する先駆けといわれています。
明治時代に伊香保を訪れたベルツ博士の指導のもと、計画されたのが温泉入浴館付自然公園の「温泉健康公園(クアパルク)」。ドイツのバーデン・バーデンやフランスのエビアンを想定したもので、当時の先駆者たちによって木暮旅館の八千代公園が建設されました。
公娼制度の廃止の検討やし尿くみ取りの一括管理など環境衛生についてもベルツ博士の指導を基本に、他に先駆けて取り組みました。町を明るくする大量のガス灯の設置は後の町営発電所建設につながり、また観光客を運ぶ伊香保軌道のチンチン電車が早くから発車しました。
天正4年(1576年)、郷土であった小暮氏、千明氏、岸氏、大島氏、島田氏、望月(永井)氏、後閑氏の七氏が湯元から現在地に集落を移し、伊香保の石段街を作りました。湯元から温泉を引き、石段を作り、中央に湯桶を伏せ左右に調整、区画された屋敷に湯を分けるという日本初の温泉リゾート都市計画です。その後寛永16年(1639年)に引湯権に関する温泉構造の規定が定められた頃には、温泉の引き湯口を持つのは十四氏になっていました。
伊香保は横浜外国人居留地の指定保養地であったという説があり、幕末から明治、大正に著名な外国人が多数訪れています。イギリスの公使のサー・アーネスト・サトー、幕府軍軍事顧問のフランス軍将校レシャルム大尉、その他たくさんの来訪が記録に残っています。昔から伊香保では盛んな国際交流が行われていました。
自然と一体になった榛名神社
徳冨蘆花と伊香保
「来世で二人が逢うとすれば、場所は伊香保だろう」というほどまでに、愛着の念を抱いた伊香保に徳冨蘆花夫妻は生涯で10回訪れました。最初が明治31年の5月で、最後となった昭和2年の7月は、終焉の地に選んでの伊香保行きでした。
明治の文豪、徳冨蘆花。彼の代表作である小説「不如帰」は、当地で執筆されました。晩年体を患った蘆花は、養生の為再び伊香保に訪れ、この地で生涯を閉じました。その絶命した別荘を移築し、多数の遺品とともに、後世に残すために開設されたのが、この文学館です。
伊香保には渋川市美術館・桑原巨守彫刻美術館や日本シャンソン館といった美術館やアミューズメント施設が立ち並ぶ芸術の遊歩道「アルテナード」を中心に、たくさの芸術にちなんだ施設が数多くあります。昔から芸術家の憩いの場として愛された伊香保だからこそ根付いた文化です。ぜひ旅の楽しみの一つとして訪れてみてください。